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理財論 (山田方谷)
山田方谷(やまだ ほうこく、文化2年2月21日(1805年3月21日) - 明治10年(1877年)6月26日)は
幕末期の儒家・陽明学者。
名は球、通称は安五郎。方谷は号。備中聖人と称された。
山田家は清和源氏の流れを汲む元武家の家であったが、
方谷が生まれるころは百姓として生計をたてていた。
方谷はお家再興を願う父、五朗吉(菜種油の製造・販売を
家業とする農商)の子として備中松山藩領西方村(現在の
岡山県高梁市)で生まれる。
20歳で士分にとりたてられ、藩校の筆頭教授に任命された。
フリー百科事典『(山田方谷 - Wikipedia)』

山田方谷像

システム的詳細は御入室
年表
文化2年(1805年) 備中松山藩領西方村で生まれる。

文化6年(1809年) 5歳 新見藩 丸川松隠(儒家)塾で朱子学を学ぶ。

文政8年(1825年) 21歳
名声広まり藩主、板倉勝職(かつつね)から奨学金(二人扶持)をいただく。

文政10年(1827年) 23歳 第1回京都遊学(春から歳末まで)で寺島白鹿に学ぶ。

文政12年(1829年) 25歳
第2回京都遊学(春から秋まで)で寺島白鹿に学ぶ。
遊学から戻り、藩主から苗字帯刀を許される。 
藩校有終館会頭(教授)に抜擢される。

天保2年(1831年) 27歳
第3回京都遊学(夏から2年半)で寺島白鹿に学ぶ。このとき、陽明学に出会う。

天保5年(1834年) 30歳
江戸遊学(1月から2年半)で佐藤一斎の門下に入る。このとき、佐久間象山と出会う。

天保7年(1836年) 32歳
有終館に戻り、指導する。大小姓格に抜擢される。『理財論』『擬対策』を書く。

天保9年(1838年) 34歳 家塾「牛麓舎」を開校する。

弘化元年(1844年) 40歳 世子の板倉勝静(かつきよ)入封する。

弘化4年(1847年) 43歳
津山藩洋式砲術役・天野直人に砲術を学ぶ。
また庭瀬藩火砲指南役・渡辺信義に火砲術を学ぶ。

嘉永2年(1849年) 45歳 松山藩の元締役兼吟味役元締を命ぜられ、藩政改革に取り組む。

嘉永4年(1851年) 47歳 農兵制(農民による洋式銃隊)を創設。

嘉永5年(1852年) 48歳 松山藩郡奉行に任命される。

安政元年(1854年) 50歳 元締兼藩執政となる。

安政3年(1856年) 52歳 年寄役助勤、郡奉行も引き続き兼務となる。

安政4年(1857年) 53歳 松山藩の元締を辞任。このとき、板倉勝静、幕府の寺社奉行となる。

万延元年(1860年) 56歳 再び藩元締に再任される。

文久元年(1861年) 57歳
2月、江戸で藩主の顧問となる。
4月、顧問を辞任し帰国。
5月、元締役辞任。

文久2年(1862年) 58歳
板倉勝静、老中となる。方谷は再び勝静の幕政顧問となるが、程なく辞任、準年寄役に転ず。

文久3年(1863年) 59歳
板倉勝静、上京。4月、京都における勝静の顧問に再任されるが、5月には辞任。

元治元年(1864年) 60歳 板倉勝静、長州征伐に出陣、留守を守る。

明治元年(1868年) 64歳 大政奉還ののち戊辰戦争おこり、備中松山征討軍に無血開城する

明治2年(1869年) 65歳 長瀬の塾舎を増築し、子弟教育につとめる。

明治3年(1870年) 66歳 刑部に住居を移転。引き続き弟子教育につとめる。

明治4年(1871年) 67歳 再興された閑谷学校(閑谷精舎)で、陽明学の講義をする。

明治10年(1877年 73歳
6月22日、小阪部にて死去。
6月29日、西方村の墓地に葬られる。


陽明学との出会い
方谷は29歳のとき、京都遊学で陽明学と出会う。このとき、王陽明伝習録から朱子学と
陽明学のそれぞれの利点と欠点を理解し、正しい学び方を修得した。

朱子学の利点は、初心者でも学問の順を追って学べば深く学ぶことができる。
しかし、我が心の内を忘れて我が心が得心しているかは問わないという欠点があった。

一方、陽明学の利点は、我が心が得心しているのかを問うて人間性の本質に迫ることができ、道理を正しく判別でき、事業においては成果を出すことができる。しかし、私欲にかられた心で行為に走ると道理の判断を誤ることが多いという欠点があった。よって、先人達の教訓や古典から真摯に学び、努力することが求められる。

この後、方谷は弟子達から陽明学の教えを請われても安易に教えることはせず、朱子学を深く学ぶことを諭した。これは、己の心のままに行為に走ってしまいやすい陽明学の欠点を熟知していたことによる。

松山藩藩政改革
方谷が説く理財論および擬対策の実践で、藩政改革を成功させた。

理財論は方谷の経済論。漢の時代の董仲舒の言葉である「義を明らかにして利を計らず」の考え方で、改革を進めた。つまり、綱紀を整え、政令を明らかにするのが義であるが、その義をあきらかにせずに利である飢餓を逃れようと事の内に立った改革では成果はあげられない。
事の外に立って目前の飢餓を気にせずに義と利の分別がつけば、おのずと道は開け飢餓する者はいなくなることを説いた。

擬対策は方谷の政治論。天下の士風が衰え、賄賂が公然と行われ度をこえて贅沢なことが、
財政を圧迫する要因になっているのでこれらを改めることを説いた。

この方針に基づいて方谷は大胆な藩政改革を行った。

  1. 藩財政を内外に公開して藩の実収入が年間1万9千石にしかならないことを
明らかにし、債務の50年返済延期を行った(ただし、改革の成功によって
数年後には完済している)。
  2. 大坂の蔵屋敷を廃止して領内に蔵を移設し、堂島米市場の動向に
左右されずに平時には最も有利な市場で米や特産品を売却し、
災害や飢饉の際には領民への援助米にあてた。
  3. 家中に質素倹約を命じて上級武士にも下級武士並みの生活を送るように命じ、
また領民から賄賂や接待を受ける事を禁じて発覚した場合には没収させた。
方谷自身の家計も率先して公開して賄賂を受けていないことを明らかにした。
  4. 多額の発行によって信用を失った藩札を回収(711貫300匁(金換算で11,855両)
相当分)し、公衆の面前で焼き捨てた。代わりに新しい藩札を発行して藩に
兌換を義務付けた。これによって藩札の流通数が大幅に減少するとともに、
信用度が増して他国の商人や資金も松山藩に流れるようになった。
  5. 領内で取れる砂鉄から備中鍬を生産させ、またタバコや茶・和紙・柚餅子などの
特産品を開発して「撫育局」を設置して一種の専売制を導入した。
  6. だが、他藩の専売制とは逆に生産に関しては生産者の利益が重視されて、
藩は後述の流通上の工夫によって利益が上げるようにした。
  7. これら特産品を商人の力が強くなりすぎて中間手数料がかかる大坂を避けて
藩所有の艦船(蒸気船「快風丸」)で直接江戸へ運び、藩邸内の施設内で
江戸や関東近辺(鍬は農村の需要が高かった)の商人に直接販売した。
これによって中間利益を排して高い収益性を確保する一方で、藩士たちに
航海術を学ばせた(ちなみに板倉家の同族である安中藩の家臣であった
若き日の新島襄もこの航海演習に参加したことがあるという)。
  8. 藩士以外の領民の教育にも力を注ぎ、優秀者には農民や商人出身でも
藩士へ取立てた。
  9. 桑や竹などの役に立つ植物を庭に植えさせた。
更に道路や河川・港湾などの公共工事を起こして貧しい領民を従事させて
現金収入を与えた。また、これによって交通の安全や農業用水の灌漑も充実された。
  10. 目安箱を設置して、領民の提案を広く訊いた。
  11. 1犯罪取締を強化する一方、寄場を設置して罪人の早期社会復帰を助けた。
  12. 下級武士に対して、一種の屯田制を導入して農地開発と平行して国境等の警備に
当たらせた。
  13. 「刀による戦い」に固執する武士に代わって農兵制を導入して、若手藩士と
農民からの志願者によるイギリス式軍隊を整えた(また、方谷自身も他藩を訪れて
西洋の兵学を学んだと言う)。
この軍制は長州藩(後の奇兵隊)や長岡藩でも模範にされた。
  14. 方谷は朱子学(とこれを奉ずる幕藩体制)の弱点を己の欲望を絶とうとする
余り義に適った利までも卑しんでしまい、結果的には正当な勤労による
利益までも否定的に捉えてしまう点にある事に気付いていた。
従って、当時の幕藩体制ではありえなかった藩(武士)が商業を手がけることに対して
非難の声を受ける事もあったが、あくまで藩主・家臣が儲けるための
政策ではなく、藩全体で利益を共有して藩の主要な構成員たる領民にそれを
最大限に還元するための手段であるとしてこの批判を一顧だにしなかった
(事実、方谷は松山藩の執政の期間には加増を辞退して、むしろ自分の財産を
減らしている)。これによって、松山藩の収入は20万石に匹敵すると言われるように
なり、農村においても生活に困窮するものはいなくなったという。
  15. また、方谷の思想は後に弟子の三島中洲の「義利合一論」へと発展して、
渋沢栄一らに影響を与えることになった。また至誠惻怛(しせいそくだつ)という真心と
慈愛の精神を説いたことでも知られる。

主な門人
 ・ 河井継之助
 ・ 三島中洲二松学舎創立者)
 ・ 川田甕江
 ・ 鎌田平山
 ・ 進鴻渓
 ・ 服部犀渓
 ・ 林抑斎
 ・ 三浦仏厳
 ・ 岡本天岳

方谷が見た幕末の舞台裏
藩主板倉勝静は白河藩主松平定信の実の孫であり、元をたどれば徳川吉宗の玄孫にあたる。そのため、幕府に対する忠誠心が高く、勝静自身も奏者番・寺社奉行・老中と幕府の要職をつとめた。しかし、幕府の重職を担う以上、藩財政の逼迫を招くものであり、方谷は勝静の幕政参加に反対していた。また、勝静は方谷の能力を高く買い、藩外交官として勝静の補佐役に任命したが、方谷は藩財政の復興など内政面では比類ない実力を有していたが、藩の外交官や幕政に対する能力には少しく能力が乏しく、また本人もそれに対しては興味が薄かったと解されている。そのため、勝静は再三に亘って方谷を寺社奉行や老中の補佐役に任命したが、程なくして辞任。代って藩の内政面では全面的に責務を負うことを条件として、松山に帰国している。専ら藩政の復興や弟子の育成に力を注いでいる。

参考
 ・ 大政奉還:方谷が大政奉還上奏文を起草した説がある。
 ・ 戊辰戦争
 ・ 松山城無血開城


明治新政府には仕官せずに死去
松山城を占領した岡山藩内では、旧幕府軍に加わっている勝静の代わりに方谷を
切腹させるべきだという意見もあったが、彼を慕う松山藩領民の抵抗を危惧した
藩中央の意向でうやむやとされた。また、岡山藩で名君と慕われていた藩主池田光政が
陽明学を振興していたことも岡山藩が方谷に好意的だった理由とも考えられる。
その後方谷は、岡山の人々の依頼で寛文10年(1670年)に池田光政が設立し、
明治3年(1870年)まで続いた閑谷学校(日本最古の庶民学校)を陽明学を教える閑谷精舎として明治7年(1874年)に再興した。明治新政府も方谷の財政改革を高く評価して三島中洲らを通じて出仕を求めた。だが、領民達を救うためとはいえ心ならずも主君・勝静を隠居に追い込んで勝手に降伏した方谷には二度と再仕官をする考えはなかった。
そして、明治10年(1877年)に死去するまで弟子の育成に生涯を捧げることになったのである。

関連項目
 ・ 幕末の人物一覧
 ・ 儒学者一覧
 ・ 岡山県出身の人物一覧
 ・ 方谷駅
 ・ 山田方谷 (小惑星)
 ・ 板倉勝静

外部リンク
 ・ 山田方谷マニアックス
 ・ 山田方谷に学ぶ財政改革

【理財論】
「理財論とは」方谷32歳の時、佐藤一斉塾で書いた論文であり、方谷の行動の原点である。
方谷は、幕末の厳しいなか備中松山藩の改革に取り入れて成果を上げた。

〔「財政の巨人 幕末の用命学者・山田方谷」林田彰浩著 引用〕

「理財論」上
 今日、理財の方策は、これまでにないほど綿密になってきています。
しかし、各藩の窮乏はますますひどくなるばかりです。田地税、収入税、関税、市場税、
通行税、畜産税など、わずかな税金でも必ず取り立てます。役人の俸給、饗応の費用、
祭礼の費用、接待交際費など、藩の出費は少しでも減らそうとします。理財の綿密なことは
このようであり、その政策を実施してきて数十年になります。であるにもかかわらず、
藩はますます困窮するばかりで、蔵の中は空となり、借金は山のようです。

 なぜだろう。知恵が足りないのだろうか。方策がまずいのだろうか。
それとも、綿密さが足りないのだろうか。いや、そうではない。
 だいたい、天下のことを上手に処理する人というのは、事の外に立っていて、事の内に屈しないものです。ところが、今日の理財の担当者は、ことごとく財の内に屈してしまっています。
 というのも、近ごろは、平和な時代が長く続いたために、国内は平穏で、国の上下とも安易な生活に慣れてしまっているのです。ただ財務の窮乏だけが現在の心配事なのです。
 そこで、国の上下を問わず、人々の心は、日夜その一事に集中し、その心配事を解決しようと
して、そのほかのことをいい加減にして、放ってしまっているのです。

 人心が日に日に邪悪になっても正そうとはせず、風俗が軽薄になってきても処置はせず、
役人が汚職に手を染め、庶民の生活が日々悪くなっても、引き締めることができない。
文教は日に荒廃し、武備(武芸)は日に弛緩しても、これを振興することができない。

 そのことを当事者に指摘すると、「財源がないので、そこまで手が及ばない」と応える。
 ああ、今述べたいくつかの事項は、国政の根本的な問題だというのに、
なおざりにしているのです。そのために、綱紀(規律)は乱れ、政令はすたれ、
理財の道もまたゆき詰まってしまいます。にもかかわらず、ただ理財の枝葉に走り、
金銭の増減にのみこだわっています。

 これは、財の内に屈していることなのです。理財のテクニックに関しては、
綿密になったにしても、困窮の度がますますひどくなっていくのは、当然のことなのです。
 さて、ここに1人の人物がいます。その人の生活は、赤貧洗うがごとくで、
居室には蓄えなどなく、かまどにはチリが積もるありさまです。
ところが、この人は、平然としているのです。貧しさに屈しないで、独自の見識を
堅持しているのです。この人は、財の外に立つ物である、といえます。
結局、富貴というものは、このような人物に与えられることになるのです。

 これに反して、世間の普通の人というのは、わずかの利益を得ることが
その願いなのですが、そのわりには年中あくせくしていて、求めても手にいれることが
できないで、そのうち飢えが迫ってきて、とうとう死んでしまう者もいるのです。
これなどは、財の内に屈する者である、といえます。

 ところが、土地は豊かな堂々たる一大藩国でありながら、そのなすところを見ますと、
あの財の外に立つ者にも及びません。財の内に屈する世間の普通人と
なんら変わらない愚行を犯しているのです。なんと悲しむべきことではないでしょうか。

 ためしに、中国の政治に例をとってみましょう。その古代の、夏、殷、周という三つの時代の
それぞれの聖王のすぐれた王道政治はいうまでもありません。その後に出た政治家で、
郡を抜く管子や商君について言わせてもらえば、彼らの富国強兵の策を
儒家は非難しています。

 ですが、管子の国の斉での政治は、礼儀を尊び、廉恥(心が清くて潔く、恥を知ること)を
重んじており、また商君の国秦での政治は、約束信義を守ることを大事とし、賞罰を厳重に
しているのです。 このように、この二人は独自の見識を持っている者であり、
必ずしも理財にのみとらわれているわけではないのです。

 ところが、後の世の、理財にのみ走る政治家たちは、こまごまと理財ばかり気にしていますが、いつしか国の上下ともに窮乏して、やがて衰亡していくことになるのです。
このことは、古今の歴史に照らしてみれば明らかなことなのです。

 そこで、今の時代の名君と賢臣とが、よくこのことを反省して、超然として財の外にたって、
財の内に屈しない。そして、金銭の出納収支に関しては、これを係の役人に委任し、
ただその大綱を掌握し管理するにとどめる。

そして、財の外に見識を立て、義理を明らかにして人心を正し、風俗の浮華(うわべだけ
華やかで、中身が伴わないこと)を除き、賄賂を禁じて役人を清廉にして、民生に努めて人や
物を豊かにし、古賢の教えを尊んで文教を振興し、士気を奪いおこして武備を張るなら、
綱紀は整って政令はここに明らかになり、こうして経国(国を治め経営すること)の大方針は
ここに確立するのです。理財の道も、おのずからここに通じます。しかしながら英明達識の
人物でなければ、こういうことはなしとげることはできないのです。

「理財論」下
 ある人が、次のように言って反対します。
「あなたがおっしゃるところの財の外に立つということと、財の内に屈するということの論は
聞かせていただきました。その上で、さらにお尋ねしたいことがあります。ともあれ、現実に、
土地が貧困な小藩というのは、上下とも苦しんでいるのです。

綱紀を整えて、政令を明らかにしようとしても、まず飢えや寒さよる死が迫ってきているのです。
その不安から逃れためには、財政問題をなんとかする以外に、方法がないのでしょうか。
それでもなお、財の外に立って、財を計らないとおっしゃるのでしたら、なんと間の抜けた論議ではありませんか」
 私は、この人に次のように答えます。
「義と利の区別をつけることが重要なことです。綱紀を整えて、政令を明らかにすることは
義です。餓死を逃れようとすることは利なのです。
君子は、(漢代の菫仲舒の言葉にありますように)ただ、(義を明らかにして、利を計らない)ものです。ただ、綱紀を整えて、政令を明らかにするだけなのです。
餓死や死をまぬがれないかは、天命なのです。

 その昔、滕国に対して、ただ善行をすすめました。

 侵略されて、破滅するということへの不安は、餓死や死への不安よりも、もっと恐怖です。
だというのに、孟子は、ただ善行をせよと教えるだけなのです。

 貧困な弱小な国が、自ら守る方法は、他にないのです。義と利の区別を明らかにするだけなのです。義と利の区別がいったん明らかになりさえすれば、守るべき道が定まります。この自ら定めた決心は、太陽や月よりも光り輝き、雷や稲妻よりも威力があり、山や牢屋よりも重く、川や海よりも大きく、天地を貫いて古今にわたって変わらないものなのです。飢えと死とは心配するにはおよびません。まして、理財などはいうにたまりません。

 しかしながら、(『易経』乾卦文言伝にある言葉ですが)〈利は義の和〉とも言います。
綱紀が整い、政令が明らかになるならば、飢えや寒さによって死んでしまうものなどいないのです。それでもなお、あなたは、私の言うことをまわりくどいといって、〈私には理財の道がある。
これによって飢えや寒さによる死から逃れることができるのだ〉とおっしゃるのでしたら、
現に我が藩国がその理財の道を行うこと数十年にもなるというのに、
我が藩国はますます貧困になっていよいよ救い難いのは、何故なのでしょうか。

2008 07 31 部外掲載
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